「書く」がわからない 〜書くことについての省察①〜
なんだか「書く」ということが、よく分からなくなってきた。
毎日忙しく仕事や育児に追われるなかで、ふと、エッセイでも書こうと思い立つことから、私の「書く」は始まる。
ゆっくりコーヒーを淹れながら、何を書こうかなと頭を巡らせ、最近あったアレについて書いたら面白そうだなと心を決めて、ノートパソコンの前に座る。
テキストを打ち込み始める。思っていた以上に順調にペンが進む。
それなのに、書いている途中でなんとなく胸がざわざわしてくる。
あれ、本当にこんなことを書きたかったんだっけ。
キーボードを叩く手がぴたりと止まる。
「書く」ということについて、最近よく考えている。
なぜ書きたいのか。
何について書きたいのか。
どんなふうに書きたいのか。
誰のために書くのか。
読んだ人に何を伝えたいのか。
そして、私にとっての「書く意味」とは何なのか。
頭の中でたくさんのクエスチョンマークが飛び交っていて、それらの交通整理をしてあげないと、この先何も書けないような気がしている。
いや、書けたとしても、それはほんとうの書くではないのだろうと直感的に感じる。
だから、「書く」ということについて書きながら考えてみたいと思う。
ここまでに「書」という字を書きすぎて、ゲシュタルト崩壊しつつある。
横線が多すぎて酔ってきそう。こんな変な字だったっけ。
だけど、それもわるくない。
書くことについて、前提や思い込みを外したゼロの地点から見られそうな気がする。
さて、まずは、なぜ書くことに躊躇いを覚え始めたかを考えてみようと思う。
そもそも、私はなぜ書いて、それを誰かに見える場所に公開することにしたんだろう。
エッセイを書きはじめた当時を振り返ってみると、私は自分の書くエッセイたちに『パンツ一丁日記』と名付けていた。
いま振り返ると大変恥ずかしく、いかにもイタイタしい命名なのだけれど、つまりは、裸の・生身の・嘘のない・本当の自分をさらけ出して書いてみようという心意気から、私の「書く」は出発したのだった。
そこに含まれていたのは、現実の社会生活の中で本当の自分をさらけ出せていないことへの不満や物足りなさ、そんな自分への苛立ち、そして、本当の自分を誰かに分かってもらいたい、本当の自分で誰かとつながりたいという切実な願いだったのである。
それにしても、男たるもの、「誰かに分かってもらいたい」などという生っちろいことを言うことを、私の中の昭和頑固親父精神は良しとしないのだが、とにかくそうだったのだから仕方がない。
しかし『パンツ一丁日記』か…。さすがにイタすぎるか。
思い出すと急に恥ずかしくなってきた。
ああああああAAAAAAaaaaaa!ファッキン!!!
よし…。落ち着け…。深呼吸、深呼吸。
すう。はあ。
さて。とにかく本当の自分を出したい、分かってもらいたいという私の切なる願いは、文章を書けば書くほど、あまりに無理な注文だったのではないかと思われるようになった。
つまり、「本当の自分」と「書かれた自分」との間には大きな溝があり、その溝は永遠に埋まらないのではないかという疑いが頭をもたげ始めたのである。
だが、それは言ってしまえば当然のことだ。
どんなに筆力があったとしても現実をありのままに描写できるわけもないし、人に読まれる以上、必要最低限の配慮は必要とされるので、書くことはどうしても制限される。
書くことを始めたときの自分もその永遠の隔たりに自覚的だったからこそ、『パンツ一丁日記』と命名したのであって、『裸一貫日記』とはしなかったわけだ。
だけれども、それは私が当初思い描いていた溝よりも、圧倒的な深さと広さを有することを思い知らされた。
私にとっての「本当の自分」というのは、我が子の末永い健康と平和を願いながらも、時には世界がボンっと爆発して消滅しまえばいいのにと祈ったりもするし、スタイルの良い女性が街中を歩いていたりするとついつい目を奪われてしまったりもするし、やたらと自嘲する癖があるくせに心の底では自分のことを天才だと疑っていなかったりもする人間なのであるが、そんな自分は文章には書かないし、書けない。
書くのは恥ずかしいし、勇気が出ない。
そんなわけで、文章を書けば書くほど、そこに現れてくるのは「読まれたい自分」でしかないことに気づく。
面白いねって言われたい自分。すごいねって言われたい自分。個性的だねって言われたい自分。
それはどれだけ本当の自分のように見せかけても、本当っぽい嘘の自分で、本当の「本当の自分」を書くためには、血を流すほどの覚悟と勇気が必要とされるような気がする。
私にはとてもじゃないが手に負えない。
だとすれば、君は一体なんのために書くのかね。
本当の「わたし」のことなんて、君には書けやしないのに。
その②に続く。