2025・12・31

まわるまわるよ 時代は回る

めっきり寒くなってきたので、「ちょっと厚手の服が欲しいな。トレーナーでも買いに行こう」と思い立ち、近所のUNIQLOに出かけた。

セーターやマフラーなどの冬物で溢れる店内は、年末休みに入ったせいか、家族連れや若者たちでごった返している。インフルエンザが流行っているらしいので、さっさと目当ての品を見つけて店を出たい。

しかし、商品名に軽く目を通しながら店内を一周してみても、トレーナーはなかなか見つからない。

早く帰りたいあまりに、見過ごしてしまったようだ。今度はもう少しゆっくり、商品を見定めながら探す。

すると、わりと入り口を入ってすぐの場所で発見。ああ、こんなところにあったのかと思って手に取ると、商品名はトレーナーではなく、「スウェット」になっていた。

「あ、そうだった。最近はトレーナーはスウェットと呼ばれるようになったんだっけ」と、一度スルーしてしまった理由を一人で納得する。

部屋着にするつもりだったので特にこだわらず、黒色・Lサイズを3着購入して店を出た。

時代の流れのなかで、トレーナーはいつの間にかスウェットに変わったし、ズボンはパンツと呼ばれるようになった。もはや以前の名称で呼ぶのは、時代遅れの様相を呈している。

だが、私の中でトレーナーはトレーナーだし、ズボンはズボンなので、いちいち脳内で「トレーナー → スウェット」「ズボン → パンツ」と脳内変換する必要があって、なんとも煩わしい。

だが、文句ばかりも言っていられない。時代はスウェットやパンツと共に回り始めているのだ。

(ところで、ズボンをパンツにするなら、下着のパンツの方も違う呼び方に変えてくれないと困る。女性用の下着はショーツという呼び方もあるらしいのでまだマシなのだが、男性用のパンツはいまだにパンツと呼ばれることが多いので困惑してしまう)

時の流れと共に変わるのは、もちろん物の名称ばかりではない。

むしろ社会的な価値観や考え方は、物の名称とは比較にならないほどの急激なスピードで変わっている。

たとえば、ほんの数年前までは「男は男らしく」という認識が、多くの人の頭の中にあって、男性が涙を見せようものなら「女々しい」と言われたし、男たるもの男女のデートでは必ず奢ってあげなければならない、などと言われたりしていた。

しかし昨今では、「男が男らしくある必要はない。たまには男が泣いたっていいんだ。デートも割り勘でいい」という意識をわりと多くの人が共有している。そもそも男らしさそれ自体に対しても疑問符がつき、〇〇らしさなどというものは存在しないと答える人も多くなっているように思う。

私自身もまた、時代に合わせて価値観や考え方をアップデートしてきたつもりだ。

だが、本当にアップデートできているのだろうか、とふいに考える時がある。

成長する過程で知らず知らず刷り込まれてきた価値観や考え方の癖を、ちょっとやそっとで簡単に変えることができるものなのだろうか。

たとえば、今もし目の前で男が弱音を吐いているのを見たりしたら「男がメソメソするな、男らしくないぞ」という思いが、一瞬頭を掠めてしまう気がする。

それが通り過ぎた後で、「違う、違う。そうじゃ、そうじゃない」と脳内で認識を改める。認めたくないものだが、その一瞬の思考の矯正が未だになくなっていない。

それはまさに、トレーナーをスウェットに脳内変換するのとまったく同じ構図だ。

もちろん「男らしさ」についてだけではない。あらゆる価値観が次々に移り変わっているので、私の頭の中では似たような変換がひっきりなしに行われている。

いつの日か、価値観や考え方をすっかり新しくすることができて、そんな瞬間的な変換をしなくても大丈夫になる時が来るのだろうか。しかし、それはなかなか遠い先のことのように思える。

もしかしたら永遠に来ないのかもしれない。努力の末に新しい自分になれたとしても、時代はさらに次へと移り変わってしまっていたり、再び価値観が逆転して元の状態に戻っていたりする可能性だってあるのだ。

まわりまわりゆく時代についていくのは、なんと難しいのだろう。

「私は古い時代の人間だからね。今の時代にはついていけないよ」といって諦めたくなる気持ちも、実際のところ半分くらいはある。

だが、そうするのはあまりに簡単だし、楽をしている気がする。とりあえず、自分を新しくすることをもう少しがんばってみようと思う。なにより他者にも自分自身にも、もっと寛容な人間でありたいから。

いまだに古い価値観から脱却できていないということをここにわざわざ書き残すことに、どんな意味があるのかは分からない。

けれど、ぶじに新しく生まれ変わった自分が、この文章を読み返して「そんな時代もあったね」ときっと笑える日が来るはずさ。

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