2026・01・12

あいも変わらず忙しい生きもの

2026年が開幕し、さっそく目まぐるしい日々が続いている。

相変わらず仕事は多いし、エッセイの執筆を含めて創作活動にも取り組みたいと思うし、昨年末に子供が産まれたことによって子育てにも追われている。

朝目覚めた瞬間に、今日やらなくちゃいけないことが脳裏で駆け巡り、「あ〜、忙しいなあ」と呟いたりもする。

自由な時間を捻出したいと思って色々と調整してみても、まるで狙っていたかのように、その空いた時間にまた新しい何かが滑り込んでくる。一体、どうなっているんだ。

もう少し穏やかな日々を送るためにはどうしたらいいものかと、この数年はずっと思案している。

そして、長い格闘の末、ついに結論に辿り着いた。

生きるというのは「忙しい」がデフォルトで、「忙しくない」はイレギュラーなのだということに。

大体、よく考えてみたら、そもそも人間が健康で文化的な最低限度の生活を営んでいくためにしなくてはならないことが多すぎる。

睡眠は8時間取らなきゃいけないし、一日に3食も食べなきゃいけないし、汗と皮脂まみれになるのでお風呂に入らなきゃいけないし、健康のためにはある程度の運動をしないといけないなんて、非効率極まりないではないか。

なぜ睡眠は1時間で十分で、1食食べれば3日くらい腹持ちして、汗と皮脂を洗い流さなくても臭くならず、運動をしなくても健康に生きていけるように進化してくれなかったのだろう。神は無慈悲だ。

そうした最低限度の生活をするための営みに時間を割いた後に、残った時間で仕事やら趣味やら、住民税の支払いやら、その他の諸々をしなきゃいけないのだから、そりゃ忙しくもなる。

これまで自分が忙しいのは資本主義による成長主義なのだと勘違いしていたのだが、それは冤罪だった。いや、冤罪とまではいかないかもしれない。少なくとも共犯者ではあると思う。

だが真犯人は、人類の存在様式そのものだったのだ。

しかし、それは所与の条件として受け入れるしかないわけで、結論、「生きる=忙しい」なのである。Q.E.D.

そんなことを考えながら、今日も忙しく過ごしていたら、ふいに思った。

もし生きるのが忙しくなかったとしたら。

睡眠は1時間で十分で、1食食べれば3日くらい腹持ちして、汗と皮脂を洗い流さなくても臭くならず、運動をしなくても健康に生きていけるとしたら。

我々はどうするか。自由な時間を使って、もっと有意義に、楽しく、素晴らしい人生を生きられるのだろうか。

最初のうちはそうなるかもしれない。

だが、最終的にはその自由な時間を費やして、色々と哲学してしまうに違いない。

なぜ生きるのか、どう生きるのか、と。

そして、生きることの無意味さを全員がはっきりと自覚してしまい、毎日それに向き合わされた末、虚無主義が蔓延し、経済は崩壊し、社会は荒れ果てるのかもしれない。

そう考えると、神は慈悲によって、人間をあえて忙しくしてくれた可能性もある。深淵を見つめる暇がなければ、見つめ返される心配もない。

人間は忙しいくらいがちょうど良いのかもしれない。そこのところはよく分からない。

とりあえず、今日も私は生きていて、あいも変わらず忙しいことだけがはっきりしている。

一覧へ戻る